ガラシャの生誕の地は越前国に有り。調べてみると歴史が色濃く残る福井県。
オラトリオ「光のみちを」を開催にあたって ガラシャ様やその周りをとりまくゆかりの地をご紹介してゆきたいと思います。まずは 意外と福井ガールだったガラシャ様の生誕地からご紹介します。
ガラシャ生誕に当たり、忘れてならぬのは「明智光秀」謎の多い人物。
美濃の国出身で斎藤道三に仕えた後追われて浪人となり越前国へ はじめは丸岡にたどり着き、そこに妻子を置き、全国を一人で歩き 堺では火縄銃を習得。その後 鉄砲の腕をかわれて朝倉氏に仕えるようになったということです。仕えている間の6年あまり朝倉氏の一乗谷にも近い東大味(ひがしおおみ)に住まいを持ち、そこで誕生した三女、玉が後の「細川ガラシャ」というわけです。
そう伝えられている東大味地区に行って参りました。
看板にもそう書かれてありますね。
また明智光秀を「あけっつぁま」と親しみを込めてた呼び名でかかれてあります。 この明智神社の前のスペースは私有地のため駐車禁止となっております。
必ず駐車場に停めましょう。
駐車場には明智光秀ゆかりの地マップがあります。
これを観てもらうと分かるとおり朝倉街道へ一本道ですね。
駐車場から歩いて行くとこんな立て札がありました。
土居の内と言うところが住居だったようです。
また、境内の入り口に恋愛成就スポット発見。
ハートに見える?ちょっとよく分からなかったんですけど 写真撮っておきました。
この中に明智光秀公をかたどった木で出来た像が祀ってあるそうです。それは400年余の間、三軒の農家の方々が静かに大切に守ってきた像だそうです。
明智家存続のため明智光秀は織田信長に仕えることになり東大味を一家で去ることになり
足利義昭の将軍昇格に伴い 明智光秀も織田信長に厚い信頼を受けるようになります。
その中で 織田信長は越前攻めを計画。全ての家を焼き払い数百万のひとびとを皆殺し朝倉氏を滅亡させます。
しかし 朝倉氏一乗谷につながる 東大味地区の住民は無事だったそうです。
そのからくりは 不可思議な安堵状。
柴田勝家と その弟 柴田勝定から「西蓮寺」に2通届いているようです。
内容は西蓮寺のサイトをご覧ください。https://9190312.jimdofree.com/%E8%A5%BF%E8%93%AE%E5%AF%BA%E3%81%A8%EF%BC%92%E9%80%9A%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%A0%B5%E7%8A%B6/
この安堵状は後に東大味地区で家族とともに過ごした東大味の方々と思って戦禍から守るために柴田勝家。勝定兄弟に依頼して出させたものでは・・・と伝わっている。
東大味地区の方々は明智光秀が「本能寺の変」で世間的にも「謀反人」とされてきた時代も光秀公を慕い、明智光秀の木の像を大事に受け継ぎ、守り、信じてこられたのもこのエピソードやそれ以上の明智光秀との絆があったからではないでしょうか。
それといかにこの地の方々が明智家を親しく大切におもってらっしゃるか分かる伝説です。
明智神社の周りには多くアゲハチョウが飛んで居るそうです。
「東大味のアゲハチョウはあけっつぁまの奥さまの熙子さまと3人の娘が蝶に姿を変えて過ごし達を見に来ているから大事にせないかん、捕ったりしてはいかん」と「アゲハチョウ伝説」と呼ばれる言い伝えがあるそうです。
また明智光秀の命日6/13には奉賛会が開催されています。いつまでも明智家を愛し尊敬している東大味の方々
そんな想いに感動し東大味を後にしました。
建物の中には芭蕉が詠んだ句もありました。
明智光秀夫婦が丸岡に滞在していた時期 生活のために熙子さんは黒髪を売って光秀を支えたというエピソードを知った芭蕉が詠んだものです。
それと 心残りは明智神社の御朱印を時間が迫って来たため頂に行けなかったこと・・・。 またお邪魔したいと思います。
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