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シナゴーグ ステンドグラス

細川ガラシャ

永禄6年(1563年)~慶長5年7月17日(1600年8月25日))

戦国時代から安土桃山時代

父:明智光秀 母:妻木煕子(ひろこ)の三女として

越前国(今の福井県福井市)に生まれる。

夫:細川忠興

​子ども:於長(おちょう:前野景定正室)

忠隆

興秋

忠利(寛永9年(1632年)に熊本藩主)

多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。

​細川ガラシャの相関図
ガラシャ相関図2.png
​細川ガラシャの物語

明智光秀の三女、玉は、織田信長の命により天正6年(1578年)8月細川忠興に嫁ぎ、​

その後、長女、そして長男・忠隆を出産した。
夫の忠興は天正8年(1580年)に18歳にして丹後の国主となり順風満帆と思われたある日、

「本能寺の変」の出来事で「謀叛人(むほんにん)の娘」の烙印を押され、夫の忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉されてしまう。
程なくして父、明智光秀は「山崎の戦い」により豊臣秀吉に滅ぼされる。


天正12年(1584年)大阪・細川屋敷に戻った玉はこの頃からキリスト教に傾倒し洗礼を受ける。
このときに受けた受洗名が「ガラシャ」由来はラテン語で恩寵(おんちょう)を意味する「Gratia(グラツィア)」という言葉。
「賜物」という意味を持つ本名の「玉(たま)」を意訳してつけられた言われている。

キリシタンとなったガラシャは、快活で積極的な性格へと変化。侍女や家臣の改宗を積極的に進め、

自らも書物を通じてさらにキリシタンへの理解を深めていった。


慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い直前、忠興は徳川家康に従い出陣。

忠興が不在となった細川屋敷を石田三成が取り囲んだ。

ガラシャは人質を拒み自害しようとするが、キリシタンであるため自害が許されない。
最後は家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命。

このとき、ガラシャ38歳。

「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

​細川ガラシャの年表

1563年

明智光秀と妻 熙子の三女として越前国(現:福井県福井市)に生まれる

1574年

正月に信長に仕える武将達が集まった際、信長の命により細川忠興との結婚がきまる

​1578年

8月 細川忠興と結婚 勝龍寺城へ移る

1579年

長女 長姫(1579-1603)を出産

1580年

夫 細川忠興が一色家を攻略 宮津城主となる

​長男 細川忠隆(1580-1646)を出産

1582年

6月2日本能寺の変 父 明智光秀が信長に対し謀反を起こす。

6月13日 山崎の戦いで 豊臣秀吉により 父 明智光秀 没
ガラシャは細川忠興から丹後国味土野に幽閉させられる。

1583年

次男 細川興秋(1583-1615) 出産

1584年

​豊臣秀吉のはからいで大阪の屋敷へ戻される

1586年

三男 細川忠利(1586-1641)(後の肥後国熊本藩初代藩主)出産

1587年

洗礼を受ける ガラシャの洗礼名を受ける

1588年

二女 細川多羅(1588-1615) 出産

1595年

忠興に改宗を告白

1600年

細川ガラシャ大坂の屋敷で没

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